5月21日 副会長挨拶

 東京育ちの私にとり「無尽」や「講」は縁遠いものでした。“飲み会”や“ゴルフ会”も「無尽で行われる」と云う事が良く分りませんでした。また「無尽講」「頼母子講」、更には「えびす講」「ねずみ講」「お伊勢講」「富士(山)講」等と「講」がどう云う関係に有るのか無いのか、良く分りませんでした。
 そこで調べたところ、元々の「講」は「講義」「講読」の「講」で、平安時代に仏典を講読・研究する僧の集団を指すものであったが、中世に入ると様々な信仰集団に「講」と云う名称が付けられるようになり、氏神・産土と云った地域の神を信仰する氏子を構成員とする「講」と、修験者による霊山への「参拝講」が作られるようになり、各地の神社・寺院へ参拝するための数多くの「講」が作られた。この「参拝講」では、講の全員が参拝に行く「総参り」も有ったが、多くは「講」の中から数人を選び代表して参拝する「代参講」が行われていたが、これが相互扶助団体「頼母子講」「無尽講」に転化して行ったと考えられています。
 一方「無尽」とは、「金融の一形態で、複数の個人や法人等が講等の組織に加盟して、一定又は変動した金品を定期または不定期に講等に対して払い込み、利息の額で競り合う競りや抽選によって金品の給付を受ける仕組みである」と難しい解説がなされていました。確かなようです。歴史的には鎌倉時代に始まった庶民同士の融資制度で、冠婚葬祭など纏まったお金が必要になった時、お互いに助け合うために作られた制度で、地域により「無尽講」、「頼母子」あるいは「頼母子講」沖縄では「模合(もあい)」と呼ばれていて、江戸時代になると大衆的な金融手段として大規模化し、明治時代になると営業を目的とした無尽業者が多数現れたが、問題業者も多くなり、大正4年に「無尽業法」が制定され免許制(無尽会社)が敷かれるに至りました。
 太平洋戦争勃発後、大規模無尽会社は戦時統合の対象とされ、都道府県別に1社に統合された。長野県では第二地方銀行である現「長野銀行」がそれである。しかし、これが「ざる法」で、強制的な統合はうまく行かず、大多数の無尽会社は銀行と変わりない程度の規模をキープすることが出来たようでした。終戦後、戦災復興のため政府は無尽会社の活用を図りましたが、GHQが「無尽」を「賭博的でギャンブルの一つであると看做しその活用に難色を示した」ため、困った政府は昭和26年に「相互銀行法」を成立させ、これにより無尽会社のほとんどが相互銀行に転換し今日に至っているとのことです。
 しかし、今日でも日本各地(農村・漁村地域)に「無尽」や「頼母子講」と呼ばれる「会」や「組織」が存在しており、特に沖縄や九州、山梨や会津並びに加賀地方で良く行われている。山梨では「無尽」が地縁血縁選挙の母体だったり、加賀では葬儀の際の互助組織と云う一面も有ったが、地区の高齢化の進行や選挙制度の改変等も有り、そうした役割は廃れてきている。
  「無尽」や「講」は、メンバーが毎月金を出し合い会合・寄り合いを持つが、その一部を積み立て一定の額になるとそのお金で宴会や旅行を催す場合もあれば、籤に当たった者(籤と云いながら実際は順番であることが多い)が金額を総取りする形態のものもある。しかし積立金がある場合や、総取り方式の場合のように金銭が絡むためメンバー同士の絶対的な信用が必要とされ、なかなか余所者を受け入れないでのが現実の姿で有った。しかしながら今日の金融制度の変化(消費者金融の発展)や社会構成の変化、すなわち地縁・血縁の希薄化に伴い、「無尽」本来の金融相互扶助の性格を薄め、多くは実質的な目的よりも、職場や友人、或いは同業者や地縁的な付き合いの延長としての色彩が強くなっているが現状で、もっぱら親しい仲間が楽しく集まるための「口実」「隠れ蓑」の役目を果たして来ている。特に山梨では、女性も「無尽」を口実に「飲み会」「女子会」を盛んに行っており、茅野もその影響をジワジワと受けて来ていると聞いています。


Last Update:2014年05月21日