6月4日 副会長挨拶

 東シナ海で日本と、南シナ海でベトナム・フィリピンとの領海・領土をめぐる対立、中国の海洋への膨張が著しい今日この頃です。近年中国が掲げるスローガン「中華民族の偉大なる復興」とは、「史上最高の栄華を極め最大の版図を築いた清帝国への回帰願望で、アヘン戦争以来の失われた歴史を取り戻そうとするもの」と考えられています。こうした中国の意図を目の当たりにした韓国は、朝鮮の伝統的な「事大主義」(大きいものにつかえる思想)への先祖返りを鮮明にしつつあるように思え、何れも伝統への回帰を目指すもので、驚かされます。
 さて、これから有る文章を読ませていただきます。“日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。ところが日本の不幸として立ち現われたのは、中国と朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じ漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、この二国と日本との精神的隔たりは余りにも大きい。情報がこれほど速く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育と云えば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場合でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄にあずかってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は先進国と共に進まなければならない。唯隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すれば良い。”  
 これは今から129年前の明治18年3月16日付「時事新報」の社説を現代語へ訳したものの抜粋で、近来の研究で福沢諭吉が書いたと考えられている文章です。この文章が書かれた時代の背景は次のようなものでした。
即ち、アヘン戦争以降の西欧列強による侵略の危機が迫る中、李朝末期の朝鮮は政争と内乱に明け暮れ、内乱に際しては宗主国である清国に派兵を要請して事を収めるという体たらくでしたが、清国はもう一つの属邦ベトナムがフランスに依って侵犯されていても、これを助けることは一度も有りませんでした。
 そこで福沢は、「朝鮮が清国との服属関係を断ち近代化を進めねば列強の餌食となることは明らかで、そうなると日本の独立も危うくなる」と考え、朝鮮の自主独立を目指す開化派朝鮮人学生の受け入れや、ハングルを用いた新聞の発刊支援などを行いましたが、開化派の運動は清の兵力介入で潰され、新聞社も焼打ちされ、開化派の親族3代までが虐殺されると云う事態に直面しました。それに怒った福沢が書いたのが、先程の新聞社説です。歴史は繰り返すと言いますが、今から129年も前の福沢の感覚は古いでしょうか、皆様どう感じますか。
 さて、福沢諭吉は豊前中津(大分県中津市)の出身だと云うことは皆さんご存じでしょうが、福沢家のルーツは信州であることは余り知られていないと思います。福沢は明治6年に先祖代々の墓を中津から東京に移した際の記念碑に、「先祖は信州福沢(地名)の人なり」と書いています。ただ、信州には11ヶ所もの福沢地名が有ります。旧地籍の1.諏訪郡長地村福沢2.諏訪郡上諏訪町福沢3.下伊那郡生田村福沢4.東筑摩群塩尻町福沢5.上伊那郡伊那村福沢6.上伊那郡東箕輪村福沢7.小県郡前山村福沢8.上水内郡富濃村福沢9.上高井郡仁礼村福沢10.更級郡上村網掛福沢11.諏訪郡豊平村福沢、今の茅野市豊平福沢です。諏訪市出身の「藤森三男」慶應義塾大学商学部名誉教授からも伺いましたが、学校でも諸説検討したが、茅野市豊平福沢が最も可能性が高いとのことでした。
 鬼場橋からビーナスラインを上って行きビックワン(旧マックスバリュー)を過ぎて最初の信号(埴原田)を右折し、「前橋」を渡ると直ぐ右側に福沢区が建てた「福沢諭吉翁 祖先発祥の郷」と書かれた石碑とステンレスの説明板が有ります。説明板には「諭吉の偉大な思想の土台が、福沢にあった可能性は極めて高く、この地の誇り」と刻まれています。茅野市が福沢諭吉の祖先の出身地であると云う事を皆さんに知ってもらいたいと思い、今回お話しさせていただきました。


Last Update:2014年06月04日