1735回 会長挨拶

皆さんこんにちは、今日の会長の時間は、例会の冒頭で歌った、ロータリーソング「奉仕の理想」についてのお話しようと思います。例会のときに歌を歌う風習は、1907 年、今から111年前シカゴRC で始まりました。「親睦」か「奉仕」かの大論争の中で、ぎすぎすしたクラブの雰囲気を和らげようと、ロ-タリ-の創業者ポ-ルハリスが音頭をとって、民謡や当時の流行歌を歌い出したのが始まりです。
 一方、日本では1935年(昭和10年)5月の京都の地区大会を記念して募集され、当選したのが4作品ありました。 第1 位は「旅は道づれ」の曲名で、歌の内容は「最もよく奉仕する者、最も多く報われる」というロータリーのモットーに通じるような内容でしたが、この歌の作曲の一部に、盗んできた作曲があったため、後に失格となり第2位の「奉仕の理想」が、第1位に繰り上げ当選しました。ちなみに第4位の歌が、皆さんおなじみの「我らの生業」でした。
 さて、繰上げ当選して1位になった「奉仕の理想」ですが、2行目の「御国に捧げん」の「御国」が、ロータリー の思想と一緒には成り立たないと感じる会員が多く、戦争の敗戦の影響もあり、死語となったような「御国」は使いたくないと、この一節を歌うときは、「地域に捧げん」と歌うクラブもあります。当時この曲を作詞した京都RCの前田さんの原案は、「御国に捧げん」ではなく「世界に捧げん」と作詞しましたが、当時の村田省蔵ガバナーは、日本は、歴史・政治・文化などが他の国よりもすぐれている、それを守り発展させようと主張する「国粋主義的」な考えを強く持った方で、この「世界に捧げん」を「御国に捧げん」と変えなければ当選は無効と宣言しましたので、前田さんは泣く泣く承諾したのだそうです。前田さんは、後に亡くなる前、「もし出来ることなら何時の日にか、原案の『世界に捧げん』に戻していただければありがたい」と遺言されたそうです。村田カバナ-が「御国」という言葉に変えたのは、当時の日本は英語を使っていけない時であり、アメリカから来たロータリーに世間の冷たい目が向 けられようとしていた時代に、ロータリーの組織を守ろうとする苦肉の策だと言われています。実際、この「奉仕の理想」が発表された昭和10年の5年後には、日本のロータリークラブは国際ロータリー を脱退し、解散を余儀なくされることになりました。 そうしたロータリーの苦難の時代を耐え抜いたこの歌の歴史を尊重しながら、21世紀を生きるロータリアンはこの歌の「御国」を「世界」、「地域」、「社会」と置き換えて、歌っているクラブが多くなってきたそうです。
 以上で会長挨拶と致します。ご清聴ありがとうございました。

1734回 会報

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1734回 会長挨拶

皆さんこんにちは
 今日の例会の唱歌は、早春賦を歌っていただきました。
この唱歌の作詞家吉丸一昌さんは大分県の出身で、長野県安曇野に訪れ、春が遅い安曇野に、春を待ちわびる心を書いたと言われています。
 また、安曇野市穂高川の河川敷には、昭和59年4月21日に多くの善意によって、「早春賦」歌詞の石塔が建てられ、ゴ-ルデンウィ-クの緑の日に「早春賦まつり」が開催され、人々が集い大合唱されます。
歌詞の意味が難しい部分がありますので、訳しますと、
 春と名ばかりの風の寒さだなあ-
 谷のウグイスは、さえずろうとしているが、
 まださえずるべき季節ではないと、声も立てない。

 氷がとけ、草木は芽吹き始めたが、
 さあ、春が来たとぞと、思ったらあいにくの
 今日も、昨日も雪の空
と訳されていました。この「早春賦」と「知床旅情」がよく似ていると言われています。両方とも、「春への憧れ」を表した歌であり、私たちの住む茅野にももうすぐ春が訪れる気配がする今日この頃です。
 以上で会長挨拶と致します。ご清聴ありがとうございました。

1733回 会報

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1733回 会長挨拶

皆さんこんにちは
 さて、ご存知のとおり、ピョヤンオリンピックで小平奈緒選手が、日本スピードスケ-ト界に新たな歴史を刻まれました。小平奈緒選手がライバル韓国のイ・サンファ選手を破り、しかもオリンピックレコ-ドで堂々と金メダルを取得しました。さらにこの二人には、日韓の国民なら皆が、想像できない、深い絆がありました。その感動エピソ-ドが紹介されていましたので、ご披露したいと思います。
 日本選手団の主将で、国内外で同種目24連勝中の小平奈緒選手(31歳相澤病院)が36秒94の五輪新記録をマ-クし、スピ-ドスケ-ト女子では初となる金メダルを獲得しました。ライバルで五輪3連覇を狙う地元韓国の女王イ・サンファを破っての快挙でした。
 大会は、小平選手が五輪新記録を、打ち出した直後、歓声に沸く日本人ファンらに対し口元に指をあて、静かにするように求めたジェスチャ-も話題になりました。小平選手の直後に、サンファ選手の組のスタ-トを控えていたことから、スタ-トに影響がでないようにする気配りが、小平選手の人間性も、金メダルと称えました。
 レ-ス直後、親友の2人はレ-ス後、自然に歩みより、勝っても、負けても、変なオ-バ-アクションもなく、お互いに笑顔で健闘を称えました。誰がみても美しい光景であり、レ-ス後3連覇を逃がしたサンファ選手は涙、小平選手はそのサンファ選手のもとに向かい、抱きしめて言葉をかけます。かけた言葉は「地元開催の韓国五輪で、サンファの受ける重圧はすごいものだった。すごく、たくさんの重圧の中で、よくやったね、私は、まだあなたのこと、まだリスペクトしているよ」と尊敬の言葉をかけ、サンファ選手の涙顔から、笑顔に変わり、2人での、ウィニングランは、「2人の友情にアイスリンクもとける」ほどでした。
 世界の舞台で長く争ってきた2人。500メ-トルでは圧倒的な力を誇ってきたサンファ選手。ただそのアスリ-トとしての姿勢は、小平選手にとっても憧れの選手でした。2人並んでの記者会見、小平選手が「サンファはいつも親切なんです。3年前にソウルの世界選手権で、私が初優勝した時、すぐにオランダに戻らなくてはいけなくて、大会の会場から空港までのタクシ-を呼んでくれて、また、お金も出してくれた。レ-スの結果は悔しいはずなのに、真摯に「奈緒のために」と思う気持ちが、それがすごくうれしかった。」と思い出を語れば、サンファ選手もまた小平選手の姿勢を尊敬の念を示しました。「奈緒さんとレ-スをして、気分が悪い気持ちになったことは1度もない」また「タクシ-代は確かに払った。レ-スに負けても、奈緒さんを嫌いになる気持ちはまったくなかった。いい友達だから、彼女のライバルであることに、誇りを持っています。」と笑顔で答えました。
 さらに、2年前、カザフスタン共和国のアスタナでバスを待っている時、奈緒さんと写真を撮りました。奈緒さんはその時、「次の五輪では、サンファが、勝って私が2位ね」と言いました。私も「それなら奈緒が勝って私が2位でいい」と二人でむきなって、言い合いました。今となっては、とても懐かしい思い出を披露しました。
 最後に、同世代で、ずっと世界のトップで、競い合ってきた2人、お互いを認め合い、2人絆は、ずっと深かったと思います。リンクを離れ、親友に戻った2人が、お互いの手を握り合いながら、ずっと笑い合いながら記者会見をしていたのが、印象的でした。
以上で会長挨拶と致します。ご清聴ありがとうございました。