1614回 チャーターメンバーによる卓話

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(平出公仁)

矢嶋内科医院の矢嶋先生からの誘いで入会しました。当時、私はクリニックを開業して4年目、47歳で突然の話で戸惑いましたが熟慮して入会しました。

当時のロータリアンの選出はその職業分野で代表者またはトップクラスの者1人とされ、例会はとても厳粛で緊張感があふれる中、粛々と行われていました。特に私は東京生まれの東京育ちだったので茅野市では高校の同級生以外に友人はなく、趣味も少なくてとても楽しい雰囲気に浴する余裕はありませんでした。

例会はSAAの司会進行は威厳に満ち、私語を叱り、服装(スーツ)、会員章着用に目を届かせ、中途退席の際は出席と認めないこともありました。

創立後、まもなく企業業績の悪化を理由に退会された会員がおられ、そのことを機に例会でロータリアンとしてどう援助対応していくのが良いか何度か協議されたこともありました。しかし結論はなかなか見出されず結局、友情と奉仕の理念を深めるという事が強調されたのみだったと思う。

私が14代会長となり、ピーターの坂本さんが幹事の時、最も頭を悩ませたのは夫人の毎月第4水曜日の夜間例会出席において、夫人たちがそれぞれ仲良し(地元)のグループをつくり、他の夫人がその輪の中に入り難い雰囲気があったことである。創立以来最多の10名の入会者がおられたが夫人の理解、関心の低さはやがて会員の退会につながるのではと危惧しました。

私にとって今、ロータリークラブは自己の認知症防止と毎日情勢と接している私にとっては性同一性障害(おとこおんな)の防止に役立ち、多くの友人と知己を得たことに感謝し、それが生涯の宝と思っております。

 

(牛山武明)

昭和54年頃、矢嶋淳ドクターから茅野にロータリークラブをつくるから仲間に入らないか?と誘われました。当時私は40歳そこそこで一旦はお断りしましたが入会しました。

創立当初は職業柄、クラブ会計を担当しました。当時の年会費は150,000円×24名=3,600,000円+αの予算での厳しい遣り繰りでした。

4期目の堀英文会長時に幹事をしましたが予算の節約を考えラーメン屋で会合をしたら避難が出てしまいました。11期時に会長、21期にガバナー補佐をつとめました。

当時1986年頃は愛知と長野が2600地区でした。

地区大会などの会議等は1年おきの交代で行っていたので名古屋へ行くのは楽しみでした。

夜の栄町にはたくさんの思い出があります。

ゴルフもロータリークラブならではの楽しい思い出があります。

鹿児島指宿のゴルフ場・・開聞岳を望みつつ、カシオオープンの1週間前でとても難しかった事。四国道後温泉のゴルフ場・・来島ドックの経営船主に進水した船をコースでプレイしながら見せる豪華さ。伊豆の川名ゴルフコース・・昼のサンドイッチが1,800円、そしてそのプレイ代の高かったこと。静岡カントリーでの浜岡コース、島田コースでの島田クラブとの交流戦などなど・・・

最後にロータリークラブは社交を目的として楽しくなくてはならない、余り難しく考えない方が楽しく長く在籍できるものと自分は思っています。

 

(矢崎和幸)

1961年に創立となっておりますが、昭和55年、富士見の五味はじめ先生と富士見の役員の方が来られてとにかくロータリーを茅野でやってくれと相談がありました。そこで私のような小さな商人が先立ってやるわけにはいかないので五味先生と相談した結果、茅野にはライオンズクラブに加入していない先生方が大勢いるということで、じゃあその先生方にお願いしてはじめようじゃないかということでお医者さんを中心に始まりました。

その当時は塚原のホテルノーブルで一週間に一回集まって会議をしていました。当時はライオンズクラブに参加している方が多く声をかけてもなかなか仲間が増えませんでした。

それでも地道な活動で少しずつメンバーが増え、ノーブルでは狭くなり寿会館である程度の期間そこで例会をしていましたがまたそこも会員数の増加に伴い手狭になり、また寿会館はパチンコ屋の上という事もありホテルちのに会場を変えました。しかしまたそこもだんだん狭くなり来客の方も招く場所がなくなり現在のこの場所に至っております。

当時は名古屋と合わせて2600地区だったのでお互いにバスで行き来していました。

 

(土橋善蔵)

この会場におられる4分の3のみなさんこんばんは。そして4分の一1の皆さんはじめまして。土橋善蔵と申します。

今から35,6年前諏訪郡市会の理事会で五味委員長が富士見の会長をやっていていましてそこで矢嶋先生と私が理事で出席していました。そんなある日、五味先生が「土橋君、矢嶋君、茅野にロータリーをつくらないか」と話がありました。私はロータリーって何ですかと聞いたら「昼に集まって飯を食えばいい」という話でした。当時忙しい中、毎週昼にあつまるのは大変だと言ったら「夜でも構わない」と適当な返事をされ、それではまあ、やってみようかということで始まりました。

当時はライオンズクラブ(建築関係)が大きな勢力をもっていてメンバーを集めようとするとことごとく話を潰されなかなかメンバーを集めることができませんでした。そんなこともあり当初は医者仲間の会員が多く(24名中7名)で茅野のロータリーは医師会かと言われたこともありました。そんな中でも建築関係の藤澤さん、宮沢さんが抵抗があったと思うがこちらの方に入ってくれました。

はじめはどんなことからはじめたらよいかわかりませんでしたが、せっかくやるなら楽しくなくちゃロータリーじゃないと命題しました。そして他のロータリーがどんな事をしているか見に行こうといろいろな大会に参加しました。当時は名古屋と一緒に2600地区をやっていました。名古屋の大会はとても面白く、名古屋の大会の時はとても参加者が多いのですが長野はとてもお堅く(つまらない)参加者は少ない状態でした。そんな中で楽しみを見つけるべく、まずはロータリアンとして誇りをもとうと、特に会員バッヂに対しては我々は誇りをもつことにしました。当時はこのバッチをつけているとお偉い方からも声をかけてもらえ、そのくらいロータリーバッヂには大きな価値がありました。そして会員はその職業の第一人者の集まりであるという自覚をし、ロータリーの仲間で職業でお互い協力できることは協力しよう、その代り他から見て何か間違っている事があれば本音でどんどん話し合おうという付き合いをはじめました。

とにかく楽しい会にするために例会にもいろいろな方をお呼びして卓話をしました。

またゴルフを毎週やったり、麻雀の会を月2回、また平出先生は今も頑張って続けている囲碁の会など趣味の会も多く取り入れみんさんが和気藹々とできるようになりました。

今、この歳になってもこんなにいい仲間ができたのはロータリーだからつくれたと思っています。そしてこの仲間を宝にして大切にしようと思っています。

私の年度としては1992年に島田ロータリークラブと姉妹都市を組みました。静岡は距離的にも交流しやすく、また静岡の人は長野の人と似ているところが多く現在もお互いによい関係ができています。

ロータリーは楽しむことが一番だが、ただ楽しむだけではなく、やることはきちんとやる。大会があれば役員だけでなくできるだけ多くの方が参加して、他のいろいろなものを見てロータリーの素晴らしさを体感する、そうすると自然に「ロータリーに入って良かった!」ということになると思います。

 

(藤澤武則)

1981年5月に茅野ロータリークラブに22名の1人として入会しましたが今日までの35年間に一度だけ退会を考えたことがありました。

この年に名古屋にて地区大会(2600地区は愛知県と長野県)に先輩4名と共に堀先生の車にて同行しました。大会の会場や内容について忘れてしまいましたが、帰りは木曽の平沢に寄って買い物をしようという事になり(夜も遅くなりましたが)帰りも先生の運転にてメンバーの一人が知り合いのお店(漆器店)に寄りました。お店に入るなり各人(私を除く4名)が店に展示してある大きなテーブル等々を次々注文するのを聞き、大変な金額に驚きと共に私がロータリークラブの会員に相応しくないと帰りの車の内で考え会を退会する事ばかり考えていましたが、その後4名の方と大変親しくなり、また多くのメンバーが入会し友人も増し、一人で出来ない社会貢献も多くのメンバーと共に出来ると思うようになり今日に至っております。ロータリークラブを退会しなくて本当に良かったと今日は思っております。最後に今後も宜しくご指導ください。


Last Update:2015年04月08日